序
世界は便利になった。
果たして、人の暮らしは本当に楽になっているのかと言う疑問をはらみながら。
起
先日、タクシー配車アプリを使った。
雨が降る中、家族で会食する機会があり身に余る贅沢な気もしたけれど、ちょうどクーポンもあったものだから使わない手はない。
しかし昔から、唯一、タクシーという乗り物が苦手だった。否、バスや電車に比べれば馴染みがなかったにすぎない。
本当に便利。その一言に尽きる。世界は日に日に変わっていく。
目の前の日常に囚われてしまうと気付かないささやかな変化も、よく目を凝らせば膨大な量、速度で通り過ぎてしまう。
スマートフォン、パソコン、タブレット。 形あるものもそういう変化に応じて、様々変化していく。便利さが加速する世界で、困惑と停滞もまた加速しているようだ。
承
今朝、横断歩道の前で何かを待つ老婆の姿を見かけた。
ふと脳裏に先日の記憶が蘇るとともに、彼女が待っているのがタクシーだと思いこみ、彼女が見ている遠くの道路をチラッと見たが、タクシーが来る気配はない。勘違いだったのかも知れない。
私も先を急いでいたものだから老婆がその後、どういう経過を辿ったのか知る由がない。タクシーは到着しただろうか。用事には間に合っているだろうか。余計なお世話だと思いつつ、会社に着くまでの間ずっと考えていた。
ところで、老婆は何を待っていたのだろう?
転
加速する進化を乗り切るには、誰もが平等とはいかない。それを見て「淘汰」という言葉を使うには、あまりに重たく冷たすぎる。自然界では弱いものが淘汰されると言われるが、その理屈を人間同士の生活の中でも万遍なく、弛まずに適用させていく必要があるとは思えない。
争いや火種が生まれるのは避けられないのではなく、避けたくない本心が隠れているようにさえ思える。誰もが格差の下位にはいたくないから、誰もが格差の上位で満足を望むから、争いの火種はいつも燻(くすぶ)り続ける。
誰もが手に入れられるテクノロジーも、望まれなければガラクタと変わらない。
転
昨年の10月、『護られなかった者たちへ』という映画を観た。
全員を救うことを理想に掲げても現実はそう上手くも甘くもなく、容赦なく厳しさを叩き込んでくる。大切な瞬間の選択を誤らずに生きていけたらと思っても、常に誤らずに生きていれば気が触れてしまいそうだ。間違えたくはないが、間違いは在ってほしいという矛盾。
その瞬間に最適解が得られないジレンマを埋めるため、あらゆるテクノロジーが生まれてきたように思う。
ただ、テクノロジーが見せてくれる刹那の解答も、長い視点で見たら最善とは限らないし、最善を論じることが既に非現実的でもあり、最善を求めている時に最善は得られないから新たなジレンマに息が詰まる。
結
老婆が求めているのは今もこれからも変わらず、無事に生きていくための処方箋ではないか。
今までそうしてきたように、これからもそうしていくという習慣が守られれば、難解なアルゴリズムや複雑なシステムなどいらない。安全に病院へ着けるのであれば、アプリなど不可解な装置はいらない。
世界は不便である。
これまでも、これからも不便であるが故に、便利であることが求められテクノロジーは進化していく。だからと言って、誰かの日常の一部が不本意に切り取られないよう、切に願いながらより面白い世界への変化を期待している。
世界は便利で不便、だから面白い。